スズキ・メソードのチェロ科が創設されたのは、1954年のことでした。以来、60年余りの月日が流れました。ここに、60年の歴史をまとめておきます。わかりやすくするために、10年ごとに整理しております。

佐藤良雄先生、カザルスのもとへ

 1946年に才能教育研究会の前身となる「全国幼児教育同志会」を結成した鈴木鎮一先生は、全国に才能教育運動が広がる中、ヴァイオリンだけでなく、他の楽器でも運動が展開されることを強く願っていました。

 チェロについては、鈴木先生が戦前に東京の帝国音楽学校で指導をされていた頃の友人で、チェロ奏者として活躍されていた佐藤良雄先生に、鈴木先生は「チェロ科を設立したい」という夢を語っています。佐藤良雄先生は永年にわたり、カザルスから教えを請いたいという熱い気持ちを持っていたこと、そして近々、それが実現できそうであることを語り、「今しばらく、お時間をください」と伝えています。鈴木先生も尊敬するカザルスに、佐藤良雄先生が直接チェロを教えていただけることに大賛成でした。その様子が「音に心を、音にいのちを〜世界の扉を開けた“鈴木鎮一”マンガ物語」(発行:全音楽譜出版社)で紹介されています。 

留学先の佐藤良雄先生

鈴木先生による随筆

 1951年秋、永年の思慕と憧憬を胸にたたえて、カザルスのもとに東洋人最初の弟子として留学された佐藤良雄先生は、師から受けた薫陶の数々を鈴木先生に、そして友人であり、後に才能教育研究会常任理事となる青木謙幸氏に、幾通もの手紙を送りました。

 鈴木先生は、異国の地で奮闘する佐藤良雄先生の姿に、かつてベルリンに8年間留学した時の思いを重ね、随筆を書かれました。右の画像が、その時の随筆です。
 その他にも、佐藤良雄先生は、パブロ・カザルスの言葉、教えの数々、そして日常の細かい描写に至るまで、克明にメモを取られていました。カザルスの言葉では、たとえば次のような言葉が紹介されました。カザルスの自分を律する言葉の中に、佐藤良雄先生の深い共鳴が伝わってくるようです。
 
・すべてを偶然に任せてなげやりにしてはいけない。何物もボンヤリ混然たるままで置いてはいけない。他人を心服させるためにはまず、本人自身が確信を持つことから始めなくてはならない。
・私は毎日再生したつもりでいる。そして、毎日毎日が私にとって再出発でなくてはならない。こうした生き方の故に、私はいつも若々しさを残している。
 

チェロ教室誕生を告知

第1回全国大会(1955.3.27 東京体育館)

 右の写真をご覧ください。第1回全国大会(1955.3.27 東京体育館)に、後に京都支部でチェロ教室を開催することになる野村武二先生ら4人の門下生とともに、佐藤良雄先生も出演されました。初めて開催された全国大会で、チェロ科の存在を大きくアピールしたことになります。

 
 1955年5月発行の「才能教育」第76号(左の写真)には、鈴木先生が待ちこがれたチェロ教室誕生のお知らせが掲載されました。「待望の〜」という言葉に、鈴木先生の気持ちが込められているのがわかります。前年に帰国された佐藤良雄先生は、夏期学校に参加され、帰国記念の独奏会を開くとともに、才能教育運動が確実に根づいている様子を肌で感じ取り、教室誕生に向けて動き出されたのです。同時に、カザルスのもとで学んだたくさんの曲の中から、指導曲集にふさわしい曲が選ばれていきました。
 

1956年10月発行の会
報誌で告知されたチェ
ロ教室のお知らせ

神戸支部での野村武二先生のレッスン風景。
手前の女の子が、河地正美先生です

 一方、松本深志高校、東京藝術大学を経て、東京フィルに在籍していた野村武二先生が、才能教育の門を叩いたのは、京都でヴァイオリン科指導者として赴任した故 新井覚先生の紹介によるものでした。新井先生と野村先生は、中学〜高校時代の同級生で、室内楽を謳歌した仲間同士だったのです。野村先生は、佐藤良雄先生にカザルス奏法を学びながら、チェロ科二人目の指導者(最初は助教)として、京都支部で教室を持ちます。それが1956年のことで、季刊誌にも京都教室の告知が掲載されました。教室開設当時のご苦労は並大抵ではなく、分数チェロが手に入りにくい時代で、3名の生徒さんでのスタートでした。新井先生と一緒にコンチェルティーノ・ディ・キョウトを結成し、弦楽アンサンブルにも力を注がれました。後に、神戸支部にも教室を設け、関西地区にチェロ科の根を下ろした功績は計り知れなく、多くの優秀な生徒を輩出し、後に続く指導者たちにも大きな影響を与えました。

 
1950年4月 チェロを弾く子どもの写真が、会報「TALENT」の表紙を飾った。この頃から鈴木先生は、チェロ教室開設の夢を抱いていた。→TALENT第2巻第4号 
1950年10月25日 社団法人才能教育研究会の設立が、当時の文部省により認可された。 
1951年 佐藤良雄先生が、南フランスのプラードにいたカザルスを念願かなって訪問。以後、2年半にわたり教えていただく。  
1954年 佐藤良雄先生、帰国。帰朝演奏会を開くとともに、チェロ科創設に邁進。
夏期学校3日目(7月30日)、佐藤良雄チェロ独奏会が開かれた。
生徒第1号が斎田出(さいたいずる)、その後、林 峰男、松波恵子姉妹らが続いた。 
1955年3月27日 第1回全国大会に佐藤良雄先生が4人の門下生とともに出演。
「才能教育」第78号に「待望のチェロ教室開設」の広告を掲載。 
1956年 野村武二先生、関西地区京都支部にチェロ科を設立。
1959年3月 チェロ科初の卒業生が誕生。
 

カザルス来日! 文京公会堂でスズキの子どもたちと感動の交流

才能教育通信第87号

右から、佐藤良雄先生、カザルス、
マルタ夫人(1961年4月16日、文京公会堂)

 1960年代の最大のトピックスは、何と言っても1961年のカザルスの来日です。4月16日、文京公会堂にマルタ夫人とともに現れたカザルスは、400名の生徒たちの中に入って、涙ぐみながら、そして感動に震える声で、素晴らしいメッセージをお話しされました。その時の様子を、才能教育通信紙上で鈴木鎮一先生は、「30年来、その音楽と奏法と偉大な人間の精神とを究めつつ、今日までやってきた私にとっては、限りなき大きな喜びであった」と記し、通訳の任に当たられた理事の本多正明先生も、カザルスの一挙手一投足をつぶさに観察し、そのすべてを伝えていらっしゃいます。スズキ・メソードを学ぶ子どもたちの姿が媒介となって、真の芸術家との魂と魂のふれあいがあったことが、見て取れます。

 
 カザルスのスピーチ(英文)です。
  Ladies and gentlemen, I assist to one of the most moving scenes that one can see. What we are contemplating has much more importance than it seems. I don’t think that in any country in the world we could feel such spirit of fraternity or cordiality in its utmost. I feel in every moment that I have had the privilege of living in this country such proof of heart, of desire of a better world . And this is what has impressed me most in this country. The superlative desire of the highest things in life and how wonderful is to see that the grown-up people think of the smallest like this as to teach them to begin with the noble feelings , with the noble deeds. And one of this music. To train them to music to make them understand that music is not only sound to have to dance or to have small pleasure, but such a high thing in life that perhaps it is music that will save the world .
 
  Now, I not only congratulate you, the teachers, the grown­ up people, but I want to say: my whole admiration , my whole respect and my heartiest congratulations . And another thing that I am happy to say at this moment is that Japan is a great people, and Japan is not only great by its deeds in industrial , in science, in art, but Japan is, I would say, the heart of the heart, and this is what humanity needs first, first, first.

 

 

カザルスご夫妻、佐藤良雄先生と
スズキの子どもたち。左端に青年
時代の林峰男先生がいらっしゃいます

1968年当時、鈴木先生は、ヴァイ
オリンの指導者にも「チェロをやり
ましょう」と推奨され、自ら研究会で
チェロを構え、佐藤良雄先生の
指導を仰がれました

チェロ奏者の聖典、
「カザルスとの対話」

 1967年には、永年にわたりカザルスの秘書を務めたホセ・マリア・コレドールがカザルスの言葉を忠実に集めた著作を、佐藤良雄先生が翻訳し、白水社から発刊されました。カザルスの姿を最も近くで見つめてきた著者。そして日本人チェリストとして2年半、直接レッスンを受け、帰国、才能教育運動に身を投じながらも、あらゆる情熱を注ぎ込んだ佐藤良雄先生の翻訳は本当に素晴らしく、チェロ奏者の「聖典」として、今なお人気が高く、2009年に復刻新装版(白水社 税抜3,200円)が登場しました。

 
1961年4月16日 カザルス来日。文京公会堂にて400人の子どもたちの演奏を聴き、歴史に残る重要なメッセージを語った。「皆さん、音楽はやがて世界を救うであろう」
1964年 長瀬冬嵐先生が、甲信地区長野支部にチェロ科開設。
1967年 「カザルスとの対話」(白水社/2009年に新装版で復刻)発刊。
1968年 全国指導者研究会(天城)で、鈴木先生がチェロのデモンストレーション。
 

ロストロポーヴィチやシャフランとの感動的な交流。チェロ全国大会を開催

第8回チェロ全国大会(神戸国際
会議場メインホール 1982.11.23)
のプログラム

ロストロポーヴィチと豆チェリストたちの
感動的な交流

 1971年10月30日、長野市で心温まるエピソードがありました。それが、世界の巨匠、ロストロポーヴィチと豆チェリストたちの感動的な交流でした。

 この時の詳細は、甲信地区チェロ科指導者の長瀬冬嵐(当時は夏嵐)先生が、第8回チェロ全国大会(神戸国際会議場メインホール 1982.11.23)のプログラムに寄稿されています(左の画像をクリックしてください)。
 
 また、2005年発行の季刊誌No.153では、来日されたロストロポーヴィチに特別にインタビューできる機会があり、その中でロストロポーヴィチは、次のように応えていました。
 「当時のこの写真、大変懐かしい写真ですね。あの時は、母を亡くした直後で、しかもソルジェニツィンをかくまったことでソ連当局から国外での演奏禁止を言われていた頃でした。やっとの思いで妻のヴィシネフスカヤと来日して、演奏会を開いたのです。この写真は、その本番直後に子どもたちが弾くバッハの“メヌエットキラキラ星変奏曲ちょうちょうが大変素晴らしくて、私もチェロを出してきて一緒に“メヌエットを弾いた時のものです。スズキ・メソードのように段階的に教えていくのは非常にいいし、重要なことであると思います。5歳、6歳で音楽をするといっても、その頃から難しい曲をやらせますと、精神的な面、知的な面での発育が逆に遅れることがあると思います。やさしい曲からだんだん難しい曲にステップアップしていくスズキ・メソードはとてもいいと思います」
 

シャフランとの再会(1976年)

シャフランとの交歓会(1974年)

 1974年には、ソ連の名チェリスト、ダニール・シャフランとの交歓会が、名古屋支部の中島顕先生のもとで行なわれました。これは、日ソ協会の方々のご厚意で実現したもので、子どもたちには大きな喜びと思い出を残しました。2年後、シャフランが再来日した折りに「あの時の子どもたちに逢いたい」という新聞記事を見つけた中島先生が、アプローチをしてみたところ、再会の機会を得ることができました。「氏の心の中に、スズキの子どもたちの印象が強く残っていたことが嬉しかった」と中島先生。

 

第1回チェロ全国大会(愛知県文化講堂)

  長野の長瀬先生クラス、京都の野村先生クラス、そして名古屋の中島先生クラスではお互いの交流がありました。次第に「チェロ科の全国大会をやろう」との気運が高まり、鈴木先生に相談すると「私は、その言葉をお待ちしていました」と即決。晴れて、第1回チェロ全国大会が愛知県文化講堂で開催されたのです。

 
 このように、海外から訪れる高名なチェリストが続く中、全国各地での教室展開も着実に行なわれ、チェロ科でも全国大会を開催しようという気運が生まれてきました。そこで、開催されたのが、1975年の第1回チェロ全国大会です。鈴木先生の生まれ故郷である名古屋の愛知県文化講堂で行なわれました。

第1回チェロ全国大会
でご挨拶をされる
佐藤良雄先生

その時のプログラムには、チェロ科創設から20年余り経過したことへの佐藤良雄先生の深い感慨とともに、全国でチェロを学ぶ生徒が300名になった喜び、さらにはヴァイオリン科の7,000名に比べ、まだまだ運動を拡大したいとの強い願いを込められた文章が記されています。

 しかし、残念ながら、その佐藤良雄先生は2年後、71歳で亡くなられました。残された4人の息子さんのうち、音楽の道に進まれた三男の光さんはパリ管弦楽団のチェロ奏者として、四男の満さんは、関東地区チェロ科指導者として活躍されています。
 

現在は、まつもと
市民芸術館の屋上
にあります。

 1978年には、全国の会員からの協力で、鈴木先生は、才能教育会館前のライラック公園(現在のまつもと市民芸術館)にカザルスの胸像を建立しました。1973年に亡くなられたカザルスの死を悼んだ鈴木先生は、「高い感覚、美しい心の立派な人に育てる音楽教育こそ、幼児の最高の教育であることを私は、はっきりと知りました」と第5回チェロ全国大会のプログラムで記されています。その強い思いが、この胸像には込められています。

 
1970年 中島顕先生、東海地区名古屋支部にチェロ科開設。3歳~50歳までの多岐にわたる生徒さんが集まり、ユニークなスタートを切った。
1971年10月30日 長野市民会館で演奏会終了後に、世界的な巨匠であるムスティスラフ・ロストロポーヴィチが子どもたちと「メヌエット」を演奏。
1973年10月22日 カザルスが、移住先のプエルトリコで心臓発作のために死去。96歳だった。
1974年 ソ連の名チェリスト、ダニール・シャフランの来日コンサート終了後、ステージで子どもたちの演奏を聴いていただく。シャフランの強い希望により、2年後に再会が実現した。
1975年5月4日 関東・関西・甲信・東海の各地区でチェロ科が充実。第1回チェロ全国大会を愛知県文化講堂で開催。
1976年5月1日 杉山 實先生が、助教に認定され、関西地区に教室を開いた。
1976年5月9日 第2回チェロ全国大会を中野サンプラザ大ホールで開催。
1977年6月12日 第3回チェロ全国大会を長野市民会館大ホールで開催。
1977年12月17日 佐藤良雄先生がご自宅で亡くなられた。71歳だった。
1978年3月1日 佐藤満先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1978年12月1日 久保田顕先生が、指導者に認定され、東海地区に教室を開いた。
1978年5月14日 第4回チェロ全国大会を神戸文化ホールで開催。
1978年7月3日 鈴木鎮一先生によって、カザルスの胸像が才能教育会館前に建立された。
1979年5月5日 第5回チェロ全国大会を愛知県勤労会館大ホールで開催。
 

ナヴァラとの交流。チェロ全国大会を毎年のように各地で開催

野村先生は、海外演奏旅行への付き添いも
数多くこなされました(写真は、1968年の
第4回。後列左から2番め)

 1980年代は、81年に、チェロ科黎明期から才能教育運動に共鳴された関西地区チェロ科指導者の野村武二先生が、そして82年に、周囲の指導者の「おふくろさん」的存在として慕われた関東地区チェロ科指導者の斎藤花子先生が、相次いでご逝去され、悲しみのスタートとなりました。

 
 季刊誌59号には、野村先生の親友だった新井覚先生、そして大先輩として慕われた中島顕先生らの追悼文が掲載されました。中島顕先生の追悼文を少し紹介しましょう。
 「まだ、指導1年生の頃、先生のコンサートにお誘いを受けたことがあります。鈴木先生も講演なさるというので大阪まで出かけて行き、50名前後の子どもたちの素晴らしい演奏を聴かせていただきました。初めて“白鳥”やポッパーのガヴォットの合奏を聴きました。ヴァイオリンでは常識になっていることが、自分の中ではチェロでは常識ではなかったのです。ステージの10数名の子どもたちがポッパーのガヴォットを合わせるだけの演奏ではなく、自在にチェロを操り、見事に弾いてのけたのです。その細やかな弓使い、微妙な節回し、今でもはっきりと目に浮かびます。自分の教室はまだキラキラ星の生徒ばかり。いつになったらこんな合奏ができるようになるのかと……(中略)。

亡くなられる4ヵ月ほど前の野村
先生と睦枝夫人、そして長男の
野村朋亨さん(1981年レークビワ
での全国指導者研究会にて)

野村先生は、生きることに本当に不器用な先生でした。チェロしかないような先生でした。そんな音楽に対する純粋さが、自分の身体を酷使された原因なのかもしれません。音楽をしている以外には、欲も野心もない先生でした。若くして佐藤先生を通してカザルスに傾倒され、才能教育にカザルスの孫弟子をたくさん育ててくださいました。(中略)先生はいつも口癖のように、教室を開設された当時のことを聞かせてくださいました。今でもまだそれほど一般的ではないチェロ、当時は小さい分数チェロですら手に入らない時代、3名の生徒からスタートされたと聞きました。多分想像できないくらいの苦労があったに違いありません。私たちより先輩の先生方はみんなそこに出発点を持っていらして、その上に今のチェロ科があることをけっして忘れてはならないと思うのです」

 

左から、久保田顕先生、斎藤花子先生、
バーツラフ・アダミーラ先生、中島顕先生、
長瀬冬嵐先生、久保田純子先生、佐藤満先生、
杉山實先生(1978年全国指導者研究会・
愛知県三ケ根にて)

  斎藤花子先生への追悼文は、季刊誌63号に掲載されました。佐藤満先生の追悼文を紹介しましょう。

 「斎藤先生は我々チェロ科のおふくろさんでした。ほとんどの者は30前後の、何も気のつかぬ無骨な男どもばかり…。そんな中にあって、私たちにはきっと気づかぬような目立たぬところで、お一人気を配られ、私たちを支えてくださいました。誰かが何かの会で椅子や荷物を運ばなければならぬとき、あるいはまた合宿をするために誰かがまとめて夜遅くまで働かねばならぬ時、先生は必ずその人たちのご苦労が報われるようご配慮されました。また助手の人たちが研究会で経済的にきつい思いをされていた時、その方たちへも心を配られておりました。人間関係については、なおさらです。先生は潤滑油のように私たちの間で、やさしく、やわらかくまとめてくださったのです。よくご馳走を作ってくださいました。夏期学校や研究会などで皆で泊まると、たいてい先生は近くのスーパーに行かれて、さっさと実に要領よく買い物をされ、あっという間に職人顔負けの手料理を振る舞ってくださいました」
 

カザルスの胸像
の前でナヴァラ
と鈴木先生
(1980年)

 そうした悲しいニュースの中にも、嬉しいできごともありました。フランスのチェリスト、アンドレ・ナヴァラとの交流です。1980年、そして82年の2度にわたる才能教育会館での公開レッスンで、的確な指導であるばかりでなく、

カザルスの胸像の前でナヴァラと
チェロ科指導者たち(1982年)

誠実さとユーモアに溢れたレッスンは、受講生や聴講者に強い影響を与えました。82年の公開レッスンでは、チェロ科の生徒を始め、卒業生、そして指導者など9名が受講。一貫して、その姿勢も音色もやわらかく、自然で美しい姿に誰もが魅了されました。

第30回全国大会にご来
場されたナヴァラ。当日
生徒が演奏した「故郷」
「浜辺の歌」は、ナヴァラ
のレコードにあわせて
練習した成果でした。

 鈴木先生は、あまりにもナヴァラの右手の動きがスムーズであることに気がつかれ、「きっと右手の甲にコインを載せて演奏しても落ちないのではないか」とアイデアが閃かれたそうです。そして、自らヴァイオリンの奏法練習として、右手の甲にコインを載せて演奏するための練習を重ねました。この練習法は、全国指導者研究会で、ヴァイオリンの指導者にも伝えられたのです。

 
1980年4月2日~3日 ピエール・フルニエやポール・トルトゥリエ、 モーリス・ジャンドロンらと並ぶ、フランスのチェロ楽派の偉大な伝統の継承者、アンドレ・ナヴァラが来日。才能教育会館(松本)で公開レッスンを行なった。
1980年5月1日 寺田義彦先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1980年9月28日 第6回チェロ全国大会を中野サンプラザ大ホールで開催。
1981年3月1日 佐藤明先生が、指導者に認定され、関東地区に教室を開いた。
1981年9月27日 第7回チェロ全国大会を中野サンプラザ大ホールで開催。
1981年10月15日 関西地区で数多くの生徒を育てられた野村武二先生が、49歳の若さで急逝された。
1982年5月1日 宮田豊先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1982年10月2日~3日 アンドレ・ナヴァラが再来日。1980年に続いて2回目となる公開レッスンを才能教育会館で行なった。
1982年11月23日 第8回チェロ全国大会を神戸国際会議場メインホールで開催。
1982年12月15日 多くの生徒を育て、また指導者仲間にも慕われた関東地区チェロ科指導者、斎藤花子先生が、亡くなられた。58歳だった。
1983年1月1日 臼井洋治先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1983年5月1日 第9回チェロ全国大会を愛知厚生年金会館ホールで開催。
1983年5月1日 藍川政隆先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1984年3月27日 第30回全国大会(日本武道館)会場に、来日中のアンドレ・ナヴァラがご来場。
1984年9月30日 第10回チェロ全国大会を新宿文化センター大ホールで開催。
1985年3月1日 井上弘之先生が、指導者に認定され、北海道・東北地区に教室を開いた。
1985年8月 エドモントン(カナダ)でスズキ・メソード第7回世界大会開催。マスタークラスとコンサートに出演されていた堤 剛先生のお姿に、参加していた中島 顕先生は高い芸術性を感じた。のちに(1992年)、指導曲集の録音につながった。
1985年11月3日 第11回チェロ全国大会を松本市音楽文化ホールで開催。
1987年5月4日 第12回チェロ全国大会を京都会館第1ホールで開催。
1987年 第56回日本音楽コンクールチェロ部門で、中島顕先生クラス出身の山本裕康さんが1位に。
1988年4月1日 北沢加奈子先生が、指導者に認定され、甲信地区に教室を開いた。
1988年6月1日 森田健二先生が、指導者に認定され、関西地区に教室を開いた。
1988年6月12日 第13回チェロ全国大会を愛知厚生年金会館ホールで開催。
1989年5月3日 第14回チェロ全国大会を宇都宮市文化会館大ホールで開催。
 

堤 剛先生による指導曲集の録音。林 峰男先生を講師として招聘。

2014年の季刊誌の「先
輩」インタビューで、
当時のことを懐かしそうに
語ってくださった堤剛
先生(サントリーホール
館長室にて)

  1992年には、現在、世界中で使われているチェロ指導曲集の録音が、テネシーとフロリダのスタジオで行なわれました。チェロが堤剛先生、ピアノが東誠三先生でした。この録音を堤先生にお願いをされたのには、7年前の出会いがありました。それが、エドモントン(カナダ)で開催されたスズキ・メソード第7回世界大会で、マスタークラスとコンサートに出演されていた堤 剛先生のお姿に、

第24回チェロ全国大会
(2012年札幌)でご挨拶
をされる林峰男先生

参加していた中島 顕先生が高い芸術性を感じられたのです。

 このエドモントンでの出会いをきっかけに、中島先生は「堤先生の演奏で教材の録音をしたい」と国際的なチェロ科の会議で進言されたところ、世界の指導者たちの圧倒的な賛成を得ました。堤先生は、この時の録音をよく覚えていらっしゃいました。「世界中の教室で使われるので、各国の偉い先生たちが、調整室にずらりと勢揃いでした。ヨーロッパでは、そう教えていない、ここはスラーにした方がいいなど、すぐに議論が始まります。指導曲集の後半はチェロのスタンダードな曲が並び、議論になりませんが、初歩の曲、特にキラキラ星変奏曲が一番大変でした。あれほど有名な曲が、あれほど難しいとは思わなかったのです」と2014年の季刊誌の「先輩」インタビューで、堤先生は懐かしそうに応えてくださいました。
 
 1996年になって、才能教育研究会は指導者養成機関としての国際スズキ・メソード音楽院の充実を果たすため、チェロ科教授としてスズキ・メソード チェロ科出身で日本を代表するチェリストでもある林峰男先生をお迎えしました。林先生は、これから指導者になる人材を育てるばかりでなく、現役のチェロ科指導者の育成にも力を注がれることを念頭に、スズキ・メソード チェロ科の責任者として、引き受けてくださり、今に続きます。
 

スズキ・メソードでチェロを
習われていた高円宮憲仁親王
殿下が「第1回1000人のチェロ・
コンサート」に3人のお嬢様と
ご一緒に参加されました。

「第1回1000人のチェロ・コンサ
ート」には、スズキ・メソードで
チェロを学ぶ生徒や指導者たち
計170名が参加しました。

1998年11月29日、「第1回1000人のチェロ・コンサート」が神戸で開催されました。これは、1995年に起きた阪神・淡路大震災の復興支援と世界平和を祈念して、国内外からプロ・アマチュアのチェリストたちが神戸に集結しました。このコンサートの名誉総裁を務められたのが、スズキ・メソードでチェロを習われていた高円宮憲仁親王殿下でした。2014年10月にご結婚をされた典子様を始め、スズキ・メソードでチェロを習われていた3人のお嬢様とご一緒に参加されました。

 70名以上の海外からの参加者を含めて、多くの出演者の関心は、小さな分数楽器を持った本会の生徒たちでした。練習の合間に、会場内の各所で、生徒たちは、モデル撮影会のようなたくさんのフラッシュを浴び、スズキチルドレンの存在をアピールしていました。
 
1990年4月22日 第15回チェロ全国大会を長野県県民文化会館中ホールで開催。
1991年5月4日 第16回チェロ全国大会を吹田市文化会館メイシアター大ホールで開催。
1991年 第60回日本音楽コンクールチェロ部門で本会チェロ科出身の菊地知也さんが1位と増沢賞を受賞。
1992年 堤 剛先生による指導曲集の録音が、テネシーとフロリダのスタジオで2回にわたり、行なわれた。
1992年4月1日 川手由紀先生が、指導者に認定され、甲信地区に教室を開いた。
1992年9月15日 第17回チェロ全国大会を愛知厚生年金会館ホールで開催。
1993年9月12日 第18回チェロ全国大会を福島県文化センター大ホールで開催。
1994年11月13日 第19回チェロ全国大会を長野県松本文化会館大ホールで開催。
1995年 第64回日本音楽コンクールチェロ部門で中島 顕先生クラス出身の長谷部一郎さんが1位に。
1996年 チェロ科講師として林 峰男先生を迎えた。以後、現在に至るまで、全国指導者研究会や夏期学校、および国際スズキ・メソード音楽院や各地のマスタークラスで精力的な指導を行なっている。
1996年9月15日 第20回チェロ全国大会を名古屋市民会館大ホールで開催。
1997年5月1日 為貝 豊先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1997年9月14日 第21回チェロ全国大会をティアラこうとう大ホールで開催。
1998年11月29日 神戸ワールド記念ホールで開催された「第1回1000人のチェロ・コンサート」にチェロ科の生徒50名、指導者20名が参加。アンコールにも、スズキの子どもたち100名(高円宮様ご一家4名様を含む)が参加し、合計170名に。1,013人の記録達成に大きく貢献した。
1999年6月1日 森由季野先生が、指導者に認定され、九州地区に教室を開いた。後に東海地区に教室を開いた。
1985年3月1日 井上弘之先生が、指導者に認定され、北海道・東北地区に教室を開いた。
1985年8月 エドモントン(カナダ)でスズキ・メソード第7回世界大会開催。マスタークラスとコンサートに出演されていた堤 剛先生のお姿に、参加していた中島 顕先生は高い芸術性を感じた。のちに(1992年)、指導曲集の録音につながった。
1985年11月3日 第11回チェロ全国大会を松本市音楽文化ホールで開催。
1987年5月4日 第12回チェロ全国大会を京都会館第1ホールで開催。
1987年 第56回日本音楽コンクールチェロ部門で、中島顕先生クラス出身の山本裕康さんが1位に。
1988年4月1日 北沢加奈子先生が、指導者に認定され、甲信地区に教室を開いた。
1988年6月1日 森田健二先生が、指導者に認定され、関西地区に教室を開いた。
1988年6月12日 第13回チェロ全国大会を愛知厚生年金会館ホールで開催。
1989年5月3日 第14回チェロ全国大会を宇都宮市文化会館大ホールで開催。
 

才能教育課程以降対象の副教材を制作。
創設50周年を記念し、チェロ・コングレスに参加

 

副教材を手作りで制作

 林 峰男先生とチェロ科指導者による定期的な研究活動を通じて、よくテーマに取り上げられたのが、各指導曲の奏法の研究でした。楽譜については、8巻までが全音楽譜出版社よりすでに出版され、必要に応じて改訂されてきました。才能教育課程以降に学ぶボッケリーニのチェロ協奏曲変ロ長調やハイドンのチェロ協奏曲第1番ハ長調、バッハの無伴奏チェロ組曲第3番、サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番、ブラームスのチェロ・ソナタ ホ短調については、市販の楽譜をそのつど手書きで直しながら、レッスンが進められていました。 2000年代に入って、林 峰男先生の意思を込めた楽譜を副教材としてきちんとまとめる必要性が高まり、楽譜制作委員会を立ち上げ、その第一弾として2005年にバッハの無伴奏チェロ組曲第3番を作りました。指導者が手分けして音符を打ち込み、楽譜ソフトで仕上げ、最終的に井上弘之先生が楽譜の定番サイズである菊倍判(304×218mm)として製本しました。こうして、現在も全国の教室で上級生の使っている楽譜が誕生しました。

 
 各曲とも、チェロ科の研究会や全国指導者研究会が開かれるたびに、改訂作業を進めてきました。同時に、生徒たちが学ぶための音源として、CDの必要性も高まり、2009年の改訂版からはCDも添付。演奏は、林 峰男先生のチェロ、大住綾野先生のピアノによるもので、2010年7月に至るまで、順次録音されていきました。市販の協奏曲のCDがオーケストラ伴奏であるのに対し、このCDをピアノ伴奏としたことで、ピアノとの共演で卒業録音に臨む生徒たちの利便性にも応えたことになります。
 
 一方で、通称「緑の本」と呼ばれる副教材も同時に制作しました。これは、ヴァイオリン科の生徒たちと全国大会(グランドコンサート)や各支部での発表会などで弦楽合奏をする際に、セカンドパートをチェロが担当することで、アンサンブルを一緒に楽しむことができます。元になったのは、鈴木先生が作られたヴァイオリン科用のセカンドパートでした。初級の時代から、アンサンブルの喜びを感じられるスズキ・メソードならではの副教材です。
 

多くのチェリストから賞賛の言葉を
もらった「10チルドレンコンサート」

スズキのプログラムを1000人のチェロの
伴奏で2曲披露した「第3回1000人の
チェロ・コンサート」の一場面。並んで
座ると背丈が大人の半分しかみたない
スズキの子どもたちが、いざ演奏となると
会場一杯にスズキトーンを響かせた
のです!

 もう一つ、大きなトピックスがありました。2005年に神戸で行なわれた世界的なチェロのイベント「インターナショナル チェロ・コングレスin神戸2005」に、「10チルドレンコンサート」、2歳から大人まで約300名が参加した「第23回チェロ全国大会」、そして「第3回1000人のチェロ・コンサート」と、3つの大イベントがスズキ・メソードの大きな可能性を世界に印象づけたのです。いずれもチェロ科創設50周年を記念しての参加でした。

 
 ロストロポーヴィチ、シュタルケル、グリーンハウス、ゲリンガスなど世界に名だたるチェリストたちが集合したこのコングレスで、彼らが一様に驚いたのが、チェロ科の子どもたちが高い能力を発揮した演奏でした。多くの賛辞が寄せられました。「ベルリン・フィル12人のチェリスト」の一人であり、ポツダムで341人によるチェロの祭典を開き、「1000人のチェロ・コンサート」のひな形を作られたルドルフ・ヴァインスハイマーさんからのメッセージを、季刊誌153号から引用して、紹介しましょう。
 

巨匠の一人、バーナード・グリーンハウス
さんのメッセージ「私は、このスズキの子ども
たちに未来を見ました。今回、日本に来て
一番の思い出です。アメリカに帰ったら、この
宝物をみんなに分け与えたいと思います」

 私は神戸でスズキ・メソードの子どもたちと出逢えて、大変喜んでいます。

 すでに1998年、1000名以上のチェロ奏者により神戸で行なわれた「第1回1000人のチェロ・コンサート」の際、特別出演したスズキの子どもたちに驚嘆し、それは大きな喜びでありました。非常に感激した私は、ヨーロッパ最大の音楽家向け雑誌「オーケストラ」に、この出逢いについての記事を掲載してもらい、子どもたちの写真がこの雑誌の表紙を飾ったものでした。
 今回は事前に教えていただいたわけですが、大規模で重要なチェロ・コングレスの際に、スズキの子どもたちを交えて行なわれるコンサートを待ちかねておりました。私はそのすべてのコンサートに赴き、4歳から15歳までの生徒たちの、信じがたいほどの能力に深く感銘いたしました。このような小さな生徒に動機を与え、夢中にさせる先生方の愛情や情熱は、いかばかりであったかと、しみじみ感じ入っております。
 300名のチェロ科の生徒によるコンサートは、魂を心底から大きく揺さぶるものであり、決して忘れることができません。私たち1069名のチェロ奏者は、ヴィヴァルディを奏でる子どもたちに接することができ、どんなに嬉しかったことでしょう。
 数人の生徒や親御さんとも話をしましたが、そこからは文字通り、一緒になって演奏する喜びと感動そのものを感じ取ることができました。幼いときから音楽と楽器に親しませることは、本当に素晴らしいアイデアです。この独特な音楽教育は、子どもたちの人格形成にも役立ち、生涯にわたって影響を与え続けることでしょう。世界中のより多くの子どもがスズキの教育に習熟し、素晴らしいアイデアを引継いで行くことを、心から願ってやみません。 

2005年8月3日(ベルリンにて)ルドルフ・ヴァインスハイマー

 

夏期学校の「午後のコンサート」で、
北大阪ユング・ゾリステンを
指揮される杉山先生(1997年)

多くの人たちから
愛された杉山 實先生

 悲しいニュースもありました。関西地区チェロ科指導者として活躍されていた杉山 實先生が、2006年5月22日に亡くなられました。中島 顕先生が追悼の文章を季刊誌157号に寄せられています。

 
 「私たちは同期で、ともにスズキで育たなかったなど、幾つも共通点があり、よく時を忘れてスズキ・メソードへの夢を語ったものでした。水島隆郎先生(在オーストラリア)が加わると、激論というより、すぐに喧嘩が始まったような次第です。お互いにアプローチは違っても求めるところは同じということがわかってからは、行き詰まると、よく連絡を取り合ったものでした。一方、誰とでも、どのような分野の人々とも、分け隔てなく接する杉山先生の人柄は多くの人たちから愛され、いつも大きな輪ができていました(後略)」
心からの同志を失われた惜別の思いが伝わってきます。
 

季刊誌170号のインタビュー記事

 一方で、嬉しいニュースも海外から届きました。2009年11月、パリで行なわれた第9回ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールで、チェロ科出身の宮田大さんが日本人として初めて優勝しました。帰国されるやいなや、季刊誌170号のインタビューで、喜びを語っていただきました。その後は、BS番組でドキュメンタリーが何度も放送されたり、小澤征爾さんとの共演など、話題に事欠くことなく、精力的に国内外での演奏活動や録音活動を続けられています。

 
2000年6月1日 河地正美先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
2001年8月25日 野村武二先生没後20年のメモリアルコンサートが、大阪のザ・フェニックスホールで開かれた。
2002年4月1日 瀬畑むつみ先生が、助教に認定され、九州地区に教室を開いた。
2002年4月1日 原 香恋先生が、助教に認定され、甲信地区に教室を開いた。
2003年1月13日 第22回チェロ全国大会をメルパルクホールFUKUOKAで開催。
2003年3月1日 廣岡直城先生が、指導者に認定され、東海地区に教室を開いた。
2003年 第72回日本音楽コンクールチェロ部門で臼井洋治先生クラス出身の遠藤真理さんが1位に。
2004年4月1日 池田沙和子先生が、指導者に認定され、北陸越地区に教室を開いた。
2005年5月 楽譜制作委員会を立ち上げ、才能教育課程以降の生徒を対象に、林 峰男先生監修の楽譜を制作。全国の教室で副教材として使用することになり、まず、バッハの無伴奏チェロ組曲第3番の楽譜を制作した。
2005年5月20日~22日 「インターナショナル・チェロ・コングレス in 神戸2005」を国際チェロアンサンブル協会と共催。あわせて、「10チルドレンコンサート」、チェロ科創設50周年記念第23回チェロ全国大会をポートピアホール(神戸市)で開催。「第3回1000人のチェロ・コンサート」にも多数の生徒が参加した。→第23回プログラム
2005年 第74回日本音楽コンクールチェロ部門で宮田豊先生クラス出身の宮田大さんが1位と増沢賞を受賞。
2006年5月22日 北大阪支部の弦楽合奏団「北大阪ユング・ゾリステン」を永年導くなど、チェロ科にとどまらず、広く才能教育研究会の発展に尽くされた、関西地区チェロ科指導者の杉山 實先生が亡くなられた。60歳だった。
2006年10月 副教材として、サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番の楽譜を制作。
2006年12月 副教材として、セカンドパート用の「緑の本」を制作。弦楽合奏に大いに役立った。
2006年12月1日 第1回ガスパール・カサド国際チェロ・コンクール(東京・八王子)の関連事業として、100名のチェロ科の子どもたちによる「ピッコリーナ・ピッコリーノ」コンサートを開催。→季刊誌158号記事
2007年4月1日 伊藤岳雄先生が、指導者に認定され、関西地区に教室を開いた。
2007年5月 副教材として、ブラームスのチェロ・ソナタ ホ短調の楽譜を制作。
2007年12月 副教材として、ボッケリーニのチェロ協奏曲 変ロ長調の楽譜を制作。
2008年5月 副教材として、ハイドンのチェロ協奏曲第1番 ハ長調の楽譜を制作。
2009年2月 副教材の添付CDとして、サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を林 峰男先生のチェロ、大住綾野先生のピアノで録音。以後、2010年7月に至るまで、ボッケリーニ、ハイドン、ブラームスのCDを順次、制作した。
2009年4月1日 宮下壮介先生が、指導者に認定され、九州地区に教室を開いた。
2009年11月7日 チェロ科出身の宮田 大さんが、パリで行なわれた第9回ロストロポーヴィチ国際チェロコンサートで、日本人として初めて優勝。
 

若い指導者も増え、さらに活動の充実を目指す

第24回チェロ全国大会の様子を伝えた
季刊誌181号

 2010年代になって、若い指導者が次々に全国の教室に着任するようになりました。2011年春に札幌に着任したばかりの山田慶一先生にエールを送る形で開催されたのが、第24回チェロ全国大会(2012年7月28日・札幌市民ホール)でした。北海道では初の開催ということで、チェロ科の生徒も指導者も飛行機で、フェリーと車で、そして鉄道で全国から集まりました。前日の交流会、そして大会翌日の「体験会」と新たな教室のPRにも大きく貢献した大会となりました。

 

「サイトウ・キネン・フェスティバル松本20周年
記念スペシャル・コンサート」でフォーレの
「エレジー」を弾く生徒たち

 北の大地でのホットなコンサートイベント直後の2012年9月、松本のキッセイ文化ホール大ホールで開催された「サイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本20周年記念スペシャル・コンサート」にヴァイオリン科の生徒とともに、チェロ科の生徒たちも出演しました。SKF総監督を務める小澤征爾さんが「松本がスズキ・メソード発祥の地であり、音楽を愛する土壌があったからこそ、私たちの音楽祭もすんなりこの地に受け入れられたのではないでしょうか」とプログラムに書かれ、20周年記念のコンサートへのスズキの子どもたちの出演を希望されたことから、実現したのです。

第24回チェロ全国大会翌日の
体験会で、初めて楽器に触る
お子さんへのレッスンをされ
ていた久保田先生。この半年
後に亡くなられました。

 一方で、2012年の年の瀬には悲しいニュースが流れました。上記のどちらのイベントでも元気なお姿を見せていただいた久保田顕先生が、亡くなられました。名古屋工業大学出身ながらも、チェロの指導者になりたいとの一念で才能教育音楽学校に入学。旧東ドイツ(DDR)への演奏旅行など、チェロ科の発展、ひいては才能教育全体の運動に尽力された久保田先生は、チェロ科の中心的な存在でした。

 

チェロ科創設60周年記念〜第25回チェロ全国大会を開催

当日のプログラム

 2015年3月27日(金)、第25回を数えるスズキ・メソード  チェロ全国大会が文京シビックホールで開催されました。同会場は、バッハをこよなく愛したカザルスが1961年に来日し、400人のスズキの子どもたちの演奏に心を震わせた文京公会堂が前身だけに、実行委員会では創設60周年記念となる今回をバッハとカザルスに捧げるコンサートと位置づけました。

バッハの「G線上のアリア」でスタート

 実行委員長の佐藤満先生は、「258名のチェロ科生徒と113名のヴァイオリン科生徒が、ステージ一杯埋め尽くし、会場が震えるほど力一杯の演奏を披露いたしました。また、堤 剛先生ならびに29名のOB・OG諸氏が、胸の熱くなる素晴らしいお祝いの演奏をお聴かせくださいました」と大きな花を添えてくださったことに、心からの感謝を表明されました。さらに「60年の歴史を振り返り、チェロ科のルーツであるカザルスとバッハへのオマージュを込めたこのコンサートを終えた今、改めて先人たちの教えと価値観を捉え直し、子どもたちの幸せと、この教育法のさらなる発展のために努力を続けてまいります」と決意を述べられています。

 人間で言えば、還暦を迎えたことになるチェロ科。鈴木鎮一先生をはじめ、チェロ科を創設した佐藤良雄先生や先人たちの敷かれた道筋をさらに研究し、次の世代に確実につなげてゆくことが、これからの大きな課題です。

カザルスが愛したカタロニア民謡「鳥の歌」を独奏された堤 剛さん。平和を希求したカザルスの願いが、会場に響きわたりました(ピアノ:石川咲子先生)

「グループレッスンが大好きでした」という森田啓佑さんは、バッハの無伴奏チェロ組曲第6番の1曲目を演奏

スズキ時代から大好きだった思い出の曲というショパンの「序奏と華麗なポロネーズ」を演奏した加藤文枝さん

大好きなシューマンの「幻想小曲集」を演奏した黒川実咲さん。この先もずっとチェロとともに歩まれるとのこと

29名のOB・OGが出演したチェロアンサンブル版のバッハ「シャコンヌ」。チェロ科第1号の生徒、斎田 出さんがコンサートマスターを務められました


2011年4月1日 山田慶一先生が、指導者に認定され、北海道・東北地区に教室を開いた。
2012年7月28日 第24回チェロ全国大会を札幌市民ホールで開催。
2012年9月7日、9日 「サイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本20周年記念スペシャル・コンサート」にヴァイオリン科の生徒とともにチェロ科の生徒たちが出演。
2012年12月13日 チェロ科の振興に力を注がれ、また才能教育研究会の理事・常務理事としても永年にわたって力を奮われた東海地区チェロ科指導者の久保田顕先生が亡くなられた。59歳だった。
2013年4月1日 山田(現在 塚尾)桃子先生が、指導者に認定され、関西地区に教室を開いた。
2013年8月1日 安田心裕先生が、指導者に認定され、関東地区に教室を開いた。
2014年4月1日 山田菜々子先生が、指導者に認定され、関東地区に教室を開いた。
2014年 第68回全日本学生音楽コンクールチェロ部門高校の部で佐藤明先生クラス出身の森田啓佑さん(桐朋女子高等学校音楽科2年)が第1位を受賞。
2014年10月29日 第83回日本音楽コンクールチェロ部門で佐藤明先生クラス出身の森田啓佑さん(桐朋女子高等学校音楽科2年)が第1位と岩谷賞(聴衆賞)を受賞。
2014年11月25日 チェロ科創設60周年記念公式サイトがスタートした。
2015年3月27日 チェロ科創設60周年記念第25回チェロ全国大会を文京シビックホール大ホールで開催。
2015年8月30日 第13回東京音楽コンクール弦楽部門で河地正美先生クラス出身の水野優也さん(桐朋女子高等学校音楽科3年)が第1位および聴衆賞を受賞。
2015年9月1日 鈴木佳都紗先生が、准指導者に認定され、関東地区に教室を開いた。 
2015年 第69回全日本学生音楽コンクールチェロ部門大学の部で故久保田顕先生クラス出身の香月麗さん(桐朋学園大学ソリスト・ディプロマ・コース1年)が第1位を受賞。 
2016年12月6日 第70回全日本学生音楽コンクール全国大会・チェロ部門大学の部で、宮田豊先生クラス出身の佐山裕樹さん(桐朋学園大学2年)が第1位を受賞。
2016年12月15日 スズキ・メソード チェロ科公式サイトスタート